アンネ・フランクの軌跡を追った話
こんにちは、太太です。
今日は真面目な話です。アンネ・フランクって知ってますか?ユダヤ人の少女がナチスの迫害を逃れ、潜伏生活を送っていたという話。でも、見つかってしまい、収容所送りになり亡くなった…という実話。
アンネがどんな軌跡を追ったのか 気になったので調べてみました。
アンネ・フランクはフランクフルト生まれ
アンネ・フランクは、1929年、ドイツのフランクフルトのアムマインで生まれました。フランクフルトはケッペンの気候区分 Cfb(西岸海洋性気候)になります。
フランクフルトは、ドイツのヘッセン州最大の都市であり、歴史も古く、素敵な町並みが残っているところ。しかし、ユダヤ人迫害の手はアンネ一家を襲い、オランダのアムステルダムへ逃亡せざるを得なくなりました。
アムステルダムでの逃亡生活
アンネ・フランクは、1942年から約2年間オランダのアムステルダムにて逃亡生活を送っていました。本棚の後ろが隠し部屋に通じるドアでしたっけね。
アンネが暮らした家は現在公開されており、中に入ることができます。アムステルダムもケッペンの気候区分でいうところの西岸海洋性気候。フランクフルトと一緒です。
最後はドイツのベルゲンベルゼンで過ごした
1944年、アンネは姉とともにベルゲンンベルゼン収容所(ハノーファー州)に送還されました。ベルゲンベルゼンは、ハンブルクを南下した場所で、生まれ故郷のフランクフルトよりも北部に位置します。
ケッペンの気候区分ではこちらも西岸海洋性気候になります。つまり、アンネ・フランクは、生涯西岸海洋性気候の場所で過ごしたことになりますね。
1944年11月にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所から「回復可能な病人」として3000人の女囚が移送されてきた。その中にアンネ・フランクとその姉マルゴット・フランク(マルゴー)がいた。
彼女たちは数ヶ月間をこの収容所で過ごしたが、1945年2月末から3月下旬頃にまずマルゴット、その翌日にアンネもチフスによって死亡した。
敷地内にはアンネとマルゴットの墓碑が建てられている。ただし両者共にこの収容所で死亡したことはわかっているものの膨大な遺体、遺骨の中で特定することは難しかったため、墓碑の下に遺体が埋葬されてはいない。
アンネ・フランクは寒い時期にベルゲンベルゼンへ送られ、チフスで亡くなりました。享年15歳。まだまだ未来があり、美しく、聡明な女の子でした。
戦争は二度と起こってはいけませんね。平和な世の中が一番です。平凡でもいいの、みんな仲良く生きましょう。